森 尚子 常葉学園大学教育学部美術専攻科卒 1998 Sutdio NAO2主催 2006 (公社)日本ジュエリーデザイナー協会 正会員 2011クラフトデザイナー中部 正会員 2008・2010・2012日本ジュエリーアート展入選 森さんのお仕事についてお聞かせ下さい。 金属、アートクレイシルバー、ガラスを中心に作品を制作。 心うきうき♪ 身につけて楽しくなるジュエリー創りをしています。
Category: In Japanese
Showing original interview in Japanese.
Interview with Actress Reine Honma – (In Japanese)
今回の映画「天使の欲望 」に参加した経緯をお話し下さい。 「旧支配者のキャロル」に出演した際(こちらはオーディションで出演が決まりました)、磯谷監督がスタッフとして参加していました。 それがきっかけで磯谷監督に今回声をかけていただきました。 http://thirdwindowfilms.com/films/new-directors-from-japan ゆりこは過去のトラウマがあります。ゆりこを演じる為にどう準備しましたか?
平井明子 マルチカルチャーに魅せられた陶芸家 – Talented Craftswoman (in Japanese)
記・マイク・サリバン 自己紹介をお願いします。 イギリスのロンドンで陶芸をしています。こちらでは珍しくないartistsの集合スタジオに工房をかまえています。 http://www.akikohiraiceramics.com/ AKIKO HIRAI from Dan Fontanelli on Vimeo. お仕事についてお聞かせ下さい。 国内外で展示会をしたりギャラリーに作品をおろしています。陶芸を始めた当初は粉引きや薪窯で作られた工芸作品が好きでその過程を勉強していましたが現在はこちらの素材を使ってその素材の美しさをそのまま活かせるものづくりにはげんでいます。粉引き、薪窯陶芸の影響は今でも強いです。
keiko Masumoto – Ceramic Designer Interview (in Japanese)
自己紹介をお願いします。 桝本佳子と申します。1982年、兵庫県たつの市で生まれました。京都市立芸術大学の美術学部及び修士課程を卒業し、10年ほど京都に住んで制作していました。その後、アメリカのフィラデルフィア芸術大学でゲストアーティスト、信楽にある滋賀県立陶芸の森でスタジオアーティスト、神戸芸術工科大学で実習助手、イギリスのVictoria & Albert Museumでレジデントアーティストを経て、現在、信楽にて制作活動をしています。
日本の美は”隠”にある。潟口真功 “GaTa” watch smith
自己紹介をお願いします。 “GaTa” watch smithこと、潟口真功ともうします。 潟口さんのお仕事についてお聞かせ下さい。 腕時計を手作りで製作しています。彫金の技術を活かして、時計本体の製作をしたり、とにかく出来るところはすべて手作りで作業しています。 一人前の時計職人になるのにはどのくらいかかりますか。 一般に知られている時計職人という職業はおそらく独り立ちするのに何年もかかると思いますが、私のような特殊な仕事は販売して購入していただいた時点でプロです。私が自信を持てたのはスタートしてから10年ほど経ってからでしょうか。 どのように”Gata” Watch Smithはスタートしましたか? 基本的な構造を理解し、時計内部を守ることから始まりました。そして腕に装着できるようにベルトを通して初めて完成するので革細工の勉強もしました。まず一本作り、試行錯誤を繰り返しながらまた作りと今も前進しつづけています。 時計作りのアイディアは、どこから来ていますか? 条件として、私の手で作れるデザインであること、時計としての機能を満足していること、愛用していただけるような、相棒のような存在であること。 アイデアとしては建築物や家具、車のデザインなどが参考になります。誰かが作ったものは必ず方法があるので「一体どうやって作ったのか」が興味の対象です。 また、時計内部に影を作り、立体感を強調することも私の特徴の一つなので空間の使い方には気を使います。文字盤のカラーリングや、素材を分けることによりケースを色分けできるのでその構成も深く考えます。 今まで作った時計達は、初めの一本からの枝分かればかりです。すべてが繋がっていてバリエーションが増えているので、デザインが先行することはあまりありません。次はこうしよう、ああしようというアイデアが次回作に繋がります。 デザインにどのくらいかかりましたか?そして、時計の製作期間をお知らせ下さい。 デザインについては常に考えているので、期間は特定できないかもしれません。製作期間は簡単なものでは数時間、特に手の込んだもので4ヶ月程度です。 時計の製作について教えて下さい。 私はビルドと呼んでいますが、ひとつひとつのパーツを製作し、それを組み上げて行く方法を採用しています。基本的には板材の状態から切リ出して製作します。 蝋型鋳造や鋳物製造法をまったく用いていないので、同じモノは作れません。 時計本体にかぎらず、外側や文字盤、ベルトの製作も行っています。 潟口さんの中で、どのくらい日本的要素を取り入れて仕事に取り組んでいますか? 心がけず取り入れているようですが、日本刀の製作や彫金の技法は参考になります。銀材や銅材の強度を自在に変化させる方法、温度をかけて3色に変化させる方法、エッジの活かし方、殺し方。そしてそれに必要な道具や力の入れ具合い・体の使い方など。視覚的な要素だけではなく、日本人ならではの感覚と手の動きは先達の方々から学ばせていただいています。 潟口さんにとって日本の伝統工芸とは? 日本人として、強く意識したことがないのですが。この質問に対する答えにはならないかもしれませんが・・・、私にとって伝統工芸は”隠れ”の美でしょうか、説明や主張はせず隠された意味を工芸に盛り込ませるのが日本独特な気がします。 何か”Gata” Watch Smithのお知らせや、潟口さん個人のイベントなどありますか? ハンドメイドジャパンフェス2014(https://hmj-fes.jp/ichiran/719)に出展いたします! gatawatchsmith.com 最後に日本の工芸に興味のある海外の方に一言お願いします。 はかないもの作りは日本の工芸の一面だと思います。とどめておけない現象や自然を、何かに写し残す工夫をして、しかしそれでも、そのもの自体は長く保たれるものではない。それを理解した上で大切に扱い、しかし飾るだけではなく実際に使用して愛でる。そして万一損じた場合はそこに命の儚さを感じる。 工芸そのものを手に取った時、その後の扱い方や育て方、保存、使用も含めての品物になると思います。壊さいないように飾るのではなく、壊さないように使う、というのでしょうか。そこに日本人的な感覚があるのだと思います。 言葉が足りず、何か誤解されてしまうような言い方が多い気がしますが、私の考えているところです。
Mizuyo Yamashita Japanese Ceramic Designer in East London. (日本語 in Japanese)
記・マイク・サリバン 自己紹介をお願いします。 私は山下瑞代です。英語の勉強のため、2000年に渡英、趣味で始めた陶芸を仕事にしています。今はイーストロンドンにスタジオを構えています。 私は7人家族の中で育ちました。
渡辺紘文 映画監督Film Director Hirobumi Watanabe “And The Mud Ship Sails Away” (in Japanese)
記・マイク・サリバン 監督になったきっかけを教えて下さい。 父親の影響で子供の頃から映画とビートルズが大好きでした。学校の先生にも「映画ばかりみていないで勉強しなさい」と怒られるほど、子供の頃から映画ばかりみていました。 日本文学を専攻する大学に入り、僕は近くの名画座(東京・池袋にある新文芸座という映画館です)へ毎日のように通うようになります。そこで僕は、世界中の素晴らしい映画の数々に出会うことになりますが、毎日映画をみているうちに、映画を見る人間から、映画をつくる人間になりたいと本気で思うようになりました。 大学卒業後、僕は日本映画界の巨匠・今村昌平監督の設立した日本映画学校へ入学します。 その学校で僕は今村昌平監督の長男である天願大介監督に師事します。 天願監督には脚本の書き方や、監督としての演出方法や心構えなど、映画についてたくさんのことを教えて貰いました。 日本映画学校の卒業制作作品として僕は「八月の軽い豚」という、養豚場で働く青年の映画をはじめて監督することになりました。 この作品がフジフィルムラヴァーズフェスタという映画祭でグランプリを受賞し、僕はその後映画を1本、演劇を2作品つくり、はじめての長編映画として「そして泥船はゆく」を製作することになります。 ご自分の会社になぜ大田原愚豚舎の名前を選びましたか? この名前は僕がつけたわけではなく、師匠である天願大介監督が命名した名前です。 「お前は太っていて、頭が悪く、大田原という町出身だからこの名前にしなさい」ということで、天願監督は僕たちに大田原愚豚舎という名前を与えました(笑) http://foolishpiggiesfilms.jimdo.com/ 「そして泥船はゆく」は初めての映画ですか?前にも映画を作ったことはありますか? 学生時代に「八月の軽い豚」という養豚場で働く青年を主人公とした40分の中篇映画、もう1本は、中国の北京電影学院、韓国の韓国フィルムアカデミー、日本映画学校から選抜された三人の監督が、それぞれの国の港を舞台とした映画をつくり一本にまとめたオムニバス映画「3つの港の物語」のうち「桟橋」という横浜を舞台にした中篇映画をつくっています。 「そして泥船はゆく」は白黒映画ですが、なぜ白黒映画を作りましたか? 韓国のカメラマンのバン・ウヒョン)Woohyun Bangと相談して白黒で撮ることに決めました。バンは学生時代からの親友で僕の映画三作品、全ての映画でカメラマンを務めています。この映画が描くべき世界観や雰囲気などを表現するために白黒がふさわしいということがひとつの理由。 また、カラーで撮ると、画面に写る人物や風景や物などが持つ色彩が、意味を持ちすぎてしまうということが二つ目の理由です。自分が白黒映画が好きであるということや、思った色彩を表現するためには予算がかかりすぎてしまうということも白黒映画にした理由です。 映画の撮影について教えて下さい。場所は栃木で全部を撮影しましたか? はい、ほとんど全てを栃木県大田原市で撮影しています。 その他には東京の上野動物園、またデモのシーンは実際に国会議事堂の前で行われていた原発反対のデモを撮影しています。 キャスティングは難しかったですか?渡辺さんの家族が出演されていますね!渋川清彦さんはとてもいい役者ですね。 この映画の主人公を渋川清彦さんにするということはシナリオを書いている時から決めていました。渋川さんと映画をつくるのはこれが初めてですが、その前に2本演劇をつくっています。渋川さんの役者としての素晴らしさは勿論ですが、僕は人間として渋川清彦さんが好きなのでキャスティングしています。 たかしのおばあちゃん・平山ミサオは、僕の本当のおばあちゃんです。彼女は現在98歳、今もとても元気で次の作品に出たいと言っています。 その他にはヒロインの高橋綾沙も含め地元の劇団員の方に出演していただいています。彼らのほとんどが映画出演の経験のない人たちでしたが、本当に一生懸命この作品に参加してくれました。 僕は東京で活動している俳優だけが優れているとは考えていません。 地方で活動している俳優に優れた人はたくさんいます。そういう意味でこの映画は、東京に集中している東京主体の映画製作体制の常識を少しだけでも打ち破ることができたと考えています。 この作品はまだ1本目ですが、作る場所や、作る人間の肩書きなどは面白い映画をつくるということと何の関係も無いということをこの映画は示すことができたと思います。 撮影に関して、一番難しかったことは何ですか? 制作スタッフが4人しかいないというところが一番大きな挑戦でした。4人で映画を本当につくることができるのか、誰もやったことがないので最初は誰もわかりませんでした。僕たちスタッフのすべてのパートには助手というものがいませんでした。監督である僕は、監督の仕事以外にもいろいろなことをやっています。 僕は役者の芝居をみて、マイクを持って、カチンコ(ボールド)を打ち、スクリプターや衣装や美術、装飾の仕事をやりました。カメラマンも助手がいない中、一人で照明をつくりカメラをまわしました。 音楽監督がプデューサーと録音の仕事もやり、編集マンが録音などの仕事もこなしています。そんな大変な現場でしたが、映画のつくりかたを知らない地元の友達や、家族の協力があり、この映画を完成することができました。 彼らは毎日よく働き、楽しそうに現場に参加してくれました。彼らがいなければこの作品をつくることはできなかったと思います。しかし一番重要なのはこの映画をつくることは大変だったけれど、毎日が楽しく、本当に面白いエキサイティングな経験だったということです。 ストーリーはどこから来ましたか?体験からですか? 「そして泥船はゆく」の物語のベースは確かに僕の生活が大きなベースとなっています。おばあちゃんと暮らしているというのは僕自身の生活です。しかし、これは映画ですので生活をベースとしたストーリーに創作性やイマジネーションを加えフィクションにしています。 僕は駄目な人間ですが、たかしほど駄目な人間では無いと思います。(笑)ただ、彼のキャラクターや思想や、生活態度などは僕自身もある程度反映されていると思います。僕とたかしの一番大きな違いは、僕には映画がありますが、彼にはそれが無いというところです。もし映画がなければ僕もたかしのようになっていたかもしれません。 そして、エイリアンを見ましたか?? 見たと思います(笑)。大田原という町は日本でも星空がよく見える町として有名だそうです。この映画の撮影が間近に迫り、脚本を直していた秋の夜、僕が空を見上げると星がおかしな動きをしていました。宇宙船だ!! 僕は叫び、酔っ払って眠っているカメラマンのバンを起こし彼を外に連れ出し星空を指差しました。 バンも言いました。 本当だ!!星が動いてる!!消えた!! あ、またでてきた!!宇宙船だ!! これは本当の話ですよ(笑)また、僕は宇宙人とか、幽霊とか妖怪とか、UMAとか正体が分からないものに興味があります。僕が特に好きなのは幽霊です。僕は古い文学や音楽や映画や絵画が好きなので、もう死んでしまってこの世界にいない人の作品に触れる時、自分は幽霊と対話していると考えます。そういう意味で僕は毎日幽霊と対話をしています。 黒澤明、チャールズ・チャップリン、夏目漱石、ドストエフスキー、トーべ・ヤンソン、ジョン・レノン、ベートーベン、マイルス・デイヴィス、レンブラント、ゴッホ・・・・僕が愛する芸術家の多くは幽霊です。だから僕は幽霊は怖くありません。彼らの作品に触れる時間が一番幸せです。 ちなみに幽霊は怖くありませんが、宇宙人やビッグフットやネッシーは怖いです(笑) 映画のたかしは何度も栃木について「何もない」と言いました。それは渡辺さんの気持ちですか? 少し違います。確かに東京などの都市に比べ、日本の地方社会は文化的、物質的には豊かではない部分があるかもしれません。しかし、たかしが「何もない」というのは彼の言い訳です。彼は田舎(自分がいる場所)に何も無いから自分が何もすることができない、だから最初から何もしないのだと考えている人間です。 しかし、こういう考えの人間は例え東京に言っても、ロンドンに行っても、ニューヨークやパリに行っても同じ事を言うと思います。たかしは生きるということが苦しく、大変で、嫌なことばかりだから、生きていることや人間社会からいつも逃げたいと考えているのだと思います。 しかし生きることから逃げるということは死ぬことです。たかしには死ぬ勇気はありません。だからたかしは自分以外の人間や風景を否定して「何もない」と口に出して言うのだと思います。 監督独特の撮影の方法はありますか? よく働き、よく学び、よく食べて、よく眠り、規則正しい人間的な生活をすることです。日本の映画人は僕から見ると破滅的な生活をしている人が多いです。そしてそのような破滅的生活を美化し、作品や自分の人生を無理矢理自己正当化しようとしているようにさえみえます。 また苦しみの先に素晴らしい何かがあると妄執的に考えている人も多すぎる気がします。僕はこのような考え方が嫌いで、実際自分が経験もしたことですが、10万円にも満たない給料で、朝五時から、翌朝の二時、三時まで一ヶ月も働いたりすることで良い映画がつくれるとは僕には思えません。 僕たちの映画は商業映画ではなく自主映画なので、限りなく自由に、自分たちが本当に面白いと思うもの、作りたいと思うものをつくろうという考えで映画をつくっています。このような僕たちの映画のつくりかたには批判もありますが、どのようなやり方で作っても映画は映画です。 僕は利益を求めることで自由を失い、制約などに縛られ不自由の中で映画をつくるプロフェッショナルであるよりも、利益や評価を求めることなく、自分たちの作りたい映画、作るべき映画を自由につくることができるアマチュアでありたいと考えています。 これは重要なことで、プロにできてアマチュアにできないことがあるように、アマチュアにできてプロには絶対にできないことがあるということです。また、僕は技術的なことや技法的なこと、スタイルのようなものにこだわりはありません。 […]
Yoko Izawa Jewelry Designer- (in Japanese)
記・マイク・サリバン 自己紹介をお願いします。 日本でパッケージデザインの仕事をしながら、彫金を勉強し、1998年に留学の為にイギリスに渡りました。当初はMaidstoneのKent Institute of Art & Design(現University for Creative Art)のGraphic Designのコースに入学しましたが、日本でかじっていたジュエリーに興味が移りChathamにある同校のGoldsmithing, Silversmithing & Jewellery Designのコースに移り、本格的にジュエリー制作の勉強を始めることとなりました。 2年の後半はドイツの石の産地で有名なIdar-Obersteinの学校で過ごし、石の研磨の体験もさることながら、イギリスの学校とはまた違ったアート表現としてのジュエリー制作のアプローチを垣間見て大変刺激を受けました。BA卒業後ロンドンのRoyal College of Art(RCA)で2年を過ごし、大学院卒業後はBirmingham のSchool of JewelleryよりArtist in Residenceとして4年間活動の場をいただき、その間に現在の“Veiled”シリーズの核となる作品を制作することとなりました。2009年にLondonに移り、2013年に15年に渡る英国生活を終え帰国することとなり、現在は制作の傍ら伊丹ジュエリーカレッジで講師をしています。 井澤さんのお仕事についてお聞かせ下さい。どのようにその作品をスタートしましたか? 自分の制作したものを見ると、イギリスのBAのコースですでに金属よりも異素材を多く使用する傾向が見られ、特に光を受けて透けた感じを表現したくてその当時はアクリル素材を主に使っていました。RCAに進んで最初の内は、一度スイッチを切って、自分の中にある価値観だとか美意識を探ることに時間を費やしました。そんな中で、ポーランドから琥珀の原石を携えてGiedymin Jablonski教授がRCAにやってきて一週間のワークショップを開催しました。 私はあまり琥珀のグロテスクな感じが好きでは無く、ワークショップの最終日に見せる作品を制作するのに四苦八苦していました。明日にはもう何か発表しなければならないという晩に、ふと最近破れて捨ててしまったストッキングを思い出し、ごみ箱から探し出して研磨した琥珀の塊にかぶせてみたら、それまで少し敬遠していた琥珀がとても魅力的なものに変身し、またゴミになっていたしなびたストッキングは琥珀という肉体を得て活力を得、一つの存在として息を吹き込まれたように見えました。それが、現在まで私のメインのラインである“Veiled”シリーズの始まりです。 ジュエリーの作品のアイディアは、どこから来ていますか?どのよう発想をしてジュエリーの作品のデザインに落とし込みますか? ストッキングというある種皮膚のような素材で包まれた存在。すごく単純な構造だけれど、内と外の素材それぞれに元々備わる特徴:形、色、硬さ・柔らかさ、感触、テンションといったものが物理的にそして視覚的に融合しています。 そこにあるのは“和”以外の何物でもなく、結局私が求めていたものは、作り手である自分も含めて、そこに関わるすべてのものが融合してできる存在なのだと思います。そして、またその存在を身に付ける人がいてあらたな融合へと繋がります。そして、“和”について突き詰めていくとやはり私が生まれ育った日本へと繋がっていきます。 デザインにどのくらいかかりましたか?そして、作品の製作期間をお知らせ下さい。作品を作る際のプロセスを簡単に説明頂けますか? 構造的に限られている中で、内側の骨組みになる物と外側の皮膚になる部分の組み合わせを探究しながら、一つの作品へと昇華させていきます。ニットの部分は輪状なので、その端をどのように最終的に処理するかでデザインが決まるので、そこが一番時間がかかっているかもしれません。プロセス的には編む(手動の編み機)、染める、造形、金具部分を制作、仕上げる、とだいたい5段階あるので、いくつかの作品を同時に各段階ごとに進めていきます。なので、一点ごとの時間はまちまちですが、半日から2日ぐらいでしょうか。 ジュエリーを使った様々な技術について教えて下さい。 作品の主な素材として薄いニットを使用しますが、これは昔の産業用の大きな手動編み機で一点一点幅を変えて編んでいます。ライクラ混合の糸を使用することで、皮膚のような自然な伸縮が生まれ、作品を特徴づけています。 一番人気の製品は何でしょうか? 内側にアクリルのボールを使ったものが、一番人気でしょうか。 井澤さんの様なお仕事に就きたいと思っている皆さんへ、何か就職に関してのアドバイスはありますでしょうか。 環境は人それぞれなので、「頑張ってください」。の一言です。 井澤さんの中で、どのくらい日本的要素を取り入れて仕事に取り組んでいますか? そして、どのように日々、日本についてのインスピレーションを取り入れていますか? “Veiled”シリーズは、違う文化に身を置いたことで改めて気づいた自らのoriginが根本にありますが、作品自身が何か日本の伝統的な技術や具体的な形や紋様を体現しているわけではありません。 その構造に見られる”隠す“”包む“、そこから生まれる実質ではなく感覚的なボリュームや奥行だとか、限定の中の無限、といった日本の文化全般に潜む法則のようなものは自分の作品にも受け継がれているのではと思います。 井澤さんにとって日本の伝統工芸とは? 自然から与えられたあらゆる素材に対する尊敬の念を感じると同時に、基本に引き戻される思いがします。 何かのお知らせや、井澤さん個人のイベントなどありますか? 展覧会の情報は随時ウェブにアップしていますので、興味のある方はどうかご覧ください。 www.yokoizawa.com 最後に日本の工芸に興味のある海外の方に一言お願いします。 日本の工芸に関しては、実際海外の愛好家の方々のほうが一般の日本人よりも勉強されていることが多く驚かされることが多いです。違う文化の方々の声に耳を傾けることで、私たち日本人も自国の文化を改めて学び、新しい発見をすることができ、それがまた未来へと繋がっていく活力になっていくのではないでしょうか。
望月人形 専務 望月勇治
自己紹介をお願いします。 私は、望月人形代表 望月明です。私で二代目になります。 お仕事についてお聞かせ下さい。 私の仕事はお雛様(節供人形)の制作及び販売を行っております。 お雛様や兜を製作する職人さんになるためには何年間くらいの修行が必要でしょうか。 これは難しい質問です。その方のやる気もありますが、最低10年間の修行は必要だと思います。ただあくまでも10年と言うのは目安であり、職人は、日々精進していかなければなりません。 お雛様や兜を飾るようになった歴史について詳しく教えて下さい。 上巳の節句(三月三日)について雛人形の歴史は古く、その起源は平安時代中期(約1000年前)にさかのぼります。その頃の人々は、三月の始めの巳の日に、上巳(じょうみ)の節句といって無病息災を願う祓いの行事をしていました。その際に紙で作った人形(ひとがた)に自分の災厄を託して海や川に流していました。 またその頃、上流階級の少女達の間では、「ひいな遊び」というものが行われてました。「ひいな」とは人形のことです。紙などで作った人形と、身の回りの道具をまねた玩具で遊ぶもので、今の「ままごと遊び」でしょう。 長い月日の間に、こうした行事と遊びが重なり合って、現在の「雛祭り」となりました。雛祭りとはお雛様をお祭りする行事のことで、三月三日にをお祭りします。上巳の節句=三月三日に定まったのは、我が国では室町時代(約600年前)頃の事と思われます。 しかし、この頃から安土・桃山時代にかけては、まだ雛人形を飾って遊ぶ今の雛祭りとはかけ離れた、祓いの行事でした。この日が華やかな女性のお祭りとなるのは、戦国の世が終わり、世の中が平和になった江戸時代からのことです。 江戸時代の初期の寛永六年(1629)京都御所で盛大な雛祭りが催されました。この頃から、江戸幕府の大奥でも雛祭りを行う様になり、やがてこの習慣は上流階級から町民へ、大都市から地方へと大きく広がって行ったのです。 そして江戸中期には、女性達ばかりでなく、女の赤ちゃん誕生を祝う初節句の風習も生まれて、雛祭りはますます盛んとなりました。江戸市中には雛市が、各所に立って大変にぎわいました。又この頃から付属の雛人形や雛道具の種類も多くなり、かなり贅沢なものが作られる様になりました。江戸幕府は雛人形の華美を禁止するお触れを再三だしていた記録も残っております。 明治に入ると、新政府は従来の節句行事を廃止して、新しい祝祭日を定めました。節句行事は一時衰えますが、長い間人々の生活に根を下ろした行事は簡単になくなるものではなく、やがて復活します。こうして雛祭りは今も民間行事として盛んに行われます。 端午の節句(五月五日)について 端午の節句は奈良時代から行われている古い行事です。端午と言うのは、五月の初めの午(うま)の日という意味です。しかし長い歴史の中で、いつのまにか五月五日に固定されてしまいました。 奈良・平安時代の端午の節句には、災厄を避けるための行事が行われる重要な日でした。宮廷ではこの日、軒に菖蒲や蓬を挿し、臣人の人々は菖蒲を冠に飾ったり、菖蒲の葉で作った薬玉を柱に下げたりしました。また、災いをもたらす悪鬼を退治する意味で、騎射(うまゆみ)、競馬(くらべうま)など勇壮な催しも行われました。 民間でも軒に菖蒲を挿し、また、子供たちが小弓を引いたり、印地と呼ばれた石合戦を盛んに行いました。印地は江戸の初めまで続きましたが、危険なために禁止されて、後に菖蒲切りというチャンバラごっこから、菖蒲打ちといって菖蒲の束を地面に叩き、音の大きさを競う遊びへと変化しました。 鎌倉時代には宮廷の端午の行事は衰えますが、代わって武家の間から、菖蒲と尚武と解し、この日を大切にする気風が生まれ、また、男の子に兜や太刀を贈ったりしました。民間でもこの頃から、菖蒲湯、菖蒲酒、菖蒲枕など菖蒲に関する風習が盛んになりました。 江戸時代、武家社会になると、端午は幕府の重要な式日となり、大名や旗本は染帷子(そめかたびら)の式服で江戸城に出仕し、将軍にお祝いを述べました。また、将軍に世継ぎが生まれると、城中にたくさんの幟や作り物の槍、薙刀、兜などを立てて盛大にこれを祝いました。民間でもこうした武士の気風をまねて、初節句に厚紙で大きな作り物の兜などを屋外に飾りました。 こうして端午の節句は、武家のみならず民間まで広がって、男の子の誕生を祝う日となったのです。作り物の鎧、兜は、やがて屋内に引き入られ、精巧なミニチュアの内飾りに変化していきます。また、外飾りの場合、民間では幟に武者絵などを大きく描いて、にぎやかに飾り立てました。そして江戸の中期を過ぎる頃から、町の人々のアイデアで鯉のぼりが考案され、次第に大きくなって江戸の空を悠々と泳ぐ様になりました。こうして端午の節句は今も民間行事として盛んに行われます。 このように、雛祭りや端午の節句は長い歴史の中ではぐくまれた日本が誇る生活文化なのです。 どのように望月人形はスタートしましたか? 私の父である、望月源藏が母(源藏の母)の勧めで昭和11年頃(1936年頃)に望月人形を始めたと聞いております。父は雛人形を制作したことがなかったので、どこかの人形職人に修行に行く所ですが、独学で雛人形の制作を始めたそうです。もともと手先が器用の為すぐに上達したそうです。 お雛様の洋服や仕草、お顔の表情を作る際に新しいアイディアを付け加えることは可能なのでしょうか。お雛様や兜のお姿は昔から変わらないと思うのですが、何かモダンな要素を付け加えることは可能なのでしょうか。 お雛様の長い歴史の中で、多少の姿、形などは変化してきました。しかし現在の雛人形の形はこの長い歴史の中で完成された形となっております。これを変えるということは、私はおかしいと思います。お雛様の衣装や、お顔の表情などは、当時のしきたりなどを模したものであり、日本の文化、風習でもあります。雛道具もまたそれぞれに意味があり、祭っている訳です。ですから単純に付け加えると言う事は出来ないと思います。 雛人形や兜を製作するのにあたり、製作期間をお知らせ下さい。作品を作る際のプロセスを簡単に説明頂けますか? 1.衣装の生地に貼る裏打用の和紙を寸法帳を見て裁断する。そして、のりを貼付け生地の裏に貼り、生地を裁断する。 2.必要なパーツを手縫いやミシンで縫い合わせて形作っていく。 3.胴体は固く重ねたワラを使用。必要な寸法に合わせ裁断し、腕の基本となる針金を取り付け、木毛を巻いたものを針金に通す。 4.2.で出来上がった衣装を、3.で出来上がった胴体に着付けをする。その際、左右のバランスなどを入念にチェックしながら着付けする。そして、最後に頭や道具を取付け完成。 日本の伝統を伝えて行く仕事だと思っております。 何か望月人形様よりお知らせや、イベントなどありますか? 5月、10月に当店で、展示会を毎年開いております。これは販売の展示会ではなく、皆様にお見せする展示会です。古い雛人形や雛道具、そして初代当主 望月源藏が数十年かけて制作した後世に残したい雛人形や雛道具の数々。機会があればご覧ください。 最後に日本の工芸に興味のある海外の方に一言お願いします。 世界には様々な人形がありますが、「おひなさま」という敬称で呼ばれ昔も今も国民全体から愛されている人形は他にはありません。当店では昔ながらの桐塑(とうそ)による頭(かしら)や稲ワラを使った胴体など、昔から伝わる伝統技術や技法、材料で一つ一つ魂を込め人形を製作しております。そこには綿々と続く伝統への畏怖と敬意はもちろん、「本物の日本の美意識」を感じ取って頂きたいという願いが込められています。「日本の伝統」への触れあいと、良き思い出作りをお手伝いできれば、こんなに嬉しいことはございません。ぜひ、お客様の確かな目で望月人形の作品をご覧になっていただければと願っております。 http://www.surugahina.com/
小町碧インタビュー 英国で活躍するヴァイオリニスト
記・マイク・サリバン 自己紹介をお願いします。日本の出身地はどちらですか? ロンドンを拠点に活動するヴァイオリニストの小町碧です。主にソロや室内楽のコンサート活動の他、ワークショップ等の指導もしています。今年4月にファースト・アルバムをリリースしました。 一応、川崎出身なのですが、実は人生の大半を海外で過ごしてきました。3歳の時に家族で香港へ引っ越し、その後、スイス、イギリスへ移りました。15歳の時に両親は日本へ帰国したのですが、私はロンドンで勉強したいという願いがあったので、イギリスに残りました。それ以来ずっとロンドンに住んでいます。2012年に英国王立音楽院を卒業しました。 サイモン・カラハンと共演しているデビュー・アルバム、「Colours of the Heart」について教えて頂けますか? 「Colours of the Heart」は2014年4月にリリースされました。「ディーリアスとゴーギャン」というテーマを基に、ディーリアス、ドビュッシ―、ラヴェル、グリーグの作品を収録しました。スタインウェイ・ピアニストのサイモン・カラハンとは2012年より様々なコンサートで共演しています。サイモンや、プロデューサーのジェレミー・ヘイズ、素晴らしいチームと共にこのアルバムを録音できて光栄でした。 ‘Colours of the Heart’: Ich Liebe Dich by Grieg このアルバムは「ディーリアスとゴーギャン」というテーマが、どの様に関係しているのですか? 「ディーリアスとゴーギャン」は、元々2012年に企画したコンサート・プロジェクトでした。英国作曲家・ディーリアスと画家・ゴーギャンの交流が、どの様に同時代のアーティスト達の作品に反映されているのか、という研究テーマを基に、プログラムを作りました。 私はこのプロジェクトを始めるまでディーリアスの音楽を全く聞いたことがなかったのですが、ロンドンのコートールド美術館にあるゴーギャンの「ネバーモア」を見た際にミステリアスな色彩から強い印象を受け、後にディーリアスがこの絵の最初の所有者であったということを知りました。ディーリアスのヴァイオリン・ソナタ第3番を初めて聴いた時、ハーモニーの音色がまるでゴーギャンの色彩を描く様だ、と感銘を受けました。 そして実際、ディーリアスとゴーギャンの間では興味深い交流があったことがわかりました。彼等を中心にムンク、ラヴェル、グリーグといったアーティスト達の輪が広まっていったのです。この研究を基に、彼等の間で共感されていたインスピレーションを、コンサート・プログラムを通じて表現したいと思いました。「Colours of the Heart」はこのプログラムを収録しています。 http://www.midorikomachi.com/ アルバムはどの様な反響がありましたか? 世界各地からメッセージを頂いたり、良い批評を頂きました。CDリリースの週にBBC Radio 3の生放送番組にてディーリアスとラヴェルを演奏したのですが、その直後、今までディーリアスの音楽を知らなかった方々が、ディーリアスの音楽に興味を持った、というご感想を頂きました。このアルバムをリリースする一つの目的が、ディーリアスの音楽を広く紹介することだったので、この様なコメントを頂いて本当に嬉しかったです。 もし次にソロアルバムをリリースするとしたら、どの様な曲を収録したいですか? 英国作曲家の作品を録音したいと思っています。まだあまり知られていなくても、素晴らしい曲がたくさんあります。ディーリアスのソナタ第2番も、いつか録音したいですね。実は、セカンド・アルバムの予定があるのですが、今のところ内容は秘密です! ‘Colours of the Heart’: Sonata for Violin and Piano No.3 by Delius 日本人としての経歴は、演奏や音楽の解釈に影響があるのでしょうか? 日本の作曲家の作品を演奏しているときに、私の日本人としてのアイデンティティーが現れていると思います。ある意味、この時しか影響していないと思います。武満徹が「間」を西洋音楽で表現した様に、日本の音楽には特別な魂があり、私はこの精神を感じとって演奏したいといつも思っています。 2011年に、「音楽における英国と日本の文化交流」というプロジェクトを企画したのですが、これをきっかけに日本人作曲家の作品を英国で紹介することになり、これからも日本の作曲家との交流を深めることができたら良いなと考えています。 日本人音楽家が海外で活動していくのは、どの様なチャレンジがあると思いますか? まず英語でのコミュニケーションができなければ難しいと思います。音楽は世界共通の言語ですが、良い音楽を作っていくには作曲家、音楽家、聴衆との交流は不可欠だと思います。 日本ではどれぐらいの頻度で演奏されていますか?又、英国で日本人音楽家とは演奏されていますか? 日本では年に1、2回、コンサートのために帰国しています。英国にいる日本人音楽家とは様々な場で共演してきました。英国王立音楽院に在学中、日本人留学生もたくさん居たので、彼等は仲良い友達でもあり、同僚でもあります。 今後、どの様なコンサートを予定されていますか? […]
佐藤友佳理 -呼吸する和紙- 和紙の新しい挑戦を続ける作家
記・Saneyuki Owada まず佐藤さんの生い立ちと和紙との出会いを教えてください。 海と山に囲まれた高知市内で生まれ、6歳まで育ちました。その後、愛媛県内子町五十崎に引っ越しました。古くから紙漉が盛んだった旧五十崎町(現内子町)の和紙工場の近所に住んでいたので、楮を煮る作業、水にさらす作業や、おばさんたちが紙漉をされるところをよくのぞいていました。小学校の卒業証書は、6年生の夏休みに自分で漉いた和紙で作られました。 「りくう」を始めようとした理由を教えてください。 父の会社で新しく始めた和紙の事業に賛同したことからでした。 空間に使う、建築資材としての大きな和紙、消臭機能や湿度調整機能という付加価値、モダンなデザイン性を持った和紙。 現代のニーズに沿った新しい価値観を和紙に吹き込み、店舗の内装などに和紙を使ってもらうという試みはきっと、沈みゆく伝統工芸が息を吹き返すために必要なことだと思ったからです。 佐藤さんの漉く和紙は通常の簀桁で漉く技法とは違う感じがしますが、そのスタイルについてお聞かせ下さい。 3メートルにもなる大きな木枠に釘を均一に打ち、和紙の紙縒りを様々なパターンにかけていきます。糸がかかった木枠を、和紙の原料である楮の繊維が水に溶けている大きな漉き槽に沈ませ、引き上げると、和紙の紙縒りに繊維が絡んでいる。 天日で乾かしては漉く、を10回ほど繰り返す。 ご自身の和紙制作において、一番難しい事また一番の面白みを教えてください。 幾何学に張られた糸に、楮の繊維はうっすら自然な形でのったりのらなかったりするため、穴が疎らに空く。 幾何学に張られた糸に、楮の繊維はうっすら自然な形でのったりのらなかったりするため、穴が疎らに空く。 どのように楮が絡んでくるかは、水温や気温や、繊維の状態によって、刻一刻と変化する。コントロールできるものとコントロールできないもの、そのバランスがみせる表情が面白い。 実際制作される際のプロセスを少しお聞かせ下さい。 楮をカットする、その楮をゼオライトという物質が発生する環境の溶液に浸して2週間。その後24時間熱してさらに楮を柔らかくする。私の集落は名水百選の観音水の水が水道から出ているので、その水で何度も何度も楮を洗う、ちりとりをしていく。きれいになった楮を和紙の繊維を更に細かくするために、「ビーター」にかける。やっと漉ける状態の楮になる。(和紙制作の工程はQ3で) 佐藤さんが和紙を漉く際のデザインの源は、インスピレーションは? 自然からのインスピレーションが主です。例えば、美しい貝殻や、雪の結晶、空や、虹など、美しいものを眺めるのが最大のインプットだと思います。 人間が無意識に心地よく感じる、昔からそして、これからも変わらない普遍的な美をいつも探しています。 和紙は日本の伝統産業の一つと思いますが、今後の和紙を佐藤さんはどう捉えていますか? 古きを守る方と、新しい挑戦をされる方、ボーダー無く皆さんが和紙それぞれの和紙を漉いていかれる。新しい世代は、技術を持った方から基本を学び、自分の中にある個性を、時代を、文化を反映された色とりどりの表現をされていくのでは。 そんな伝統工芸をどう思われますか? 伝統工芸と今日呼ばれるものも、始めた当時は革新の技術であったはず。賛否両論の中、職人が技を磨き貫き、それが人々に受け入れられ、営みの中に浸透することで「伝統」となっていく。それはいつの時代も同じなのだと思います。 佐藤さんにとって和紙とは? 自分が美しいと思うものを表現するため、また、伝統工芸・日本の文化など、まさに今、もう一度みつめ、守る必要があるという、メッセージを伝えるために賜ったもの。 和紙に興味をもつ読者にメッセージをお願い致します。 和紙は漆喰や木と同様、日本の家屋に使われて来ました。最近は手漉きの和紙に触れる機会も少なくなってきましたが、日本の風土にあった素材である和紙を、今の私達の生活にどのようなアプローチをすれば取り入れていけるかをいつも楽しく考えています。
松田環 ー 漆職人
記・Saneyuki Owada ご自身の生い立ちを少しお聞かせ下さい。 生まれた時は、呼吸と心臓が止まっていたそうです。両親は教師で、ゼロ歳の時から保育園に居ました。 漆との出会いをお聞かせ下さい。 私の故郷は奈良県と和歌山県に挟まれており、家の近くも古い歴史ある町で、日本の歴史に関わる重要なお寺がいくつかあります。お寺や神社と漆との関わりは深いので、無意識に小さい時から目には入っていたと思います。 私の祖父は美術が好きで、祖父母の家には大きな書棚があり、その中は全て美術書でした。古今東西の美術書や展覧会図録があり、その中でも私が好きだったのが正倉院の本でした。シルクロードを渡りやって来たというロマンティックな点や、見た目の、大らかな美しさ、やさしい華やかさに惹かれました。その中でも特に、革に漆を塗った箱が好きで、そこから漆という素材に興味を持ちました。 http://matsudatamaki.jimdo.com/ 制作するにあたって、一番の面白みと一番の苦しみをお聞かせ下さい。 面白みと苦しみの両方に共通する点は、やはりこの素材の扱い難さだと思います。天然の素材なので、性格が個々に異なる上に天候によっても扱いが変わります。 そして、工程が多いのでどうしても制作にある程度の時間がかかります。しかし、毎回違うせいか、飽きることがありません。知れば知るほど、自分が何も知らない事に気づかされます。 じっさいに制作される場合の制作工程をお聞かせ下さい。 胎になる素材や使う技法や加飾により異なりますが、私がよく使う乾漆という技法では、まず彫刻用粘土で原型をつくり、石膏で雌型をとり、そこに漆下地・麻布を糊漆ではる、をそれぞれ5回ほど繰り返します。毎回全ての工程に研ぎの作業が入ります。 そのはり重ねる作業が終わったら型から抜きます。型から抜くと、粘土原型と同じ形の乾漆の土台の立体になります。そこにまた漆下地を繰り返し塗り、研ぎ、肌の土台をつくり、研ぎ作業により形を整えます。それから、精製された塗り用の漆を塗る・研ぐ事を数回繰り返し、加飾をする場合は更に金属粉を蒔き付けたり、貝をはったり、金箔をはったり、模様を描いたり、また塗ったり、磨いたり、様々です。 一つの作品を仕上げるのに、どのくらいの期間を費やしますか? 漆は塗る度に、漆ムロと呼ばれる木の棚のような所に入れて、一定の温度と湿度を調整しながら約一晩から数日かけて乾かします。なので、大きさや技法などによって大きく差がありますが、最低だいたい3ヶ月はかかり、一年間ずっと作り続ける時もありますし、しばらく置いてまた作りだすという作り方をする作品だと期間は更に長くなる事がよくあります。 松田さんの作品には兎などの生き物をモチーフにしたものが多いようですが、モチーフをどのように決めていますか? あまりそれについて頭で考えた事がありません。素材自身が生き物である事が多く、漆も言わば木の血液です。漆の塗膜は皮膚にとても似ています。それと、子供の折、日本の昔話が好きで常に愛読していたのですが、そこには多くの動物があらゆる姿で登場します。動物は言葉を介さずコミュニケーションをとりますが、そのあたりも私にとり重要なところです。私は言葉を使って、考えや気持ちを伝える事を得手としていません。 日々ズレや間違いが起こり、もどかしさを感じます。大抵頼りにするのは、言葉の内容と一緒に、声の色や目の動き、体の表情や、とる行動、時には匂いの時もあります。そうする事で伝えたり受け取ったりする内容の理解を、相手の想像力に委ねる事になり、あまり窮屈な思いをしません。兎は、実は、実物は大して好きではなく、兎のもつ物語性が好きです。 実物の兎は、どこを見ているのかわからないあの目が何だか空疎で、そのポッカリした部分に私は何か込めたいのでしょう。やたらに耳は大きいのに、逆に声を発するイメージが無く、また月の中に兎が居る(日本ではそうですね。)せいで、夜の世界との繋がりも感じ、私にとり魅力的なモチーフです。 作品の制作にはいるとき、テーマをどのように決めていますか? 常に考えていますが、頭だけで考えて見つかる事はほぼ無いので、手を動かします。私はゴールを決め、そこに向かって走る事が出来ません。毎度変わらない世界を、いろんな寄り道をしながら進む感じです。毎度変わらないテーマは眠りです。眠っている世界での自分や人々の行方に興味が湧きます。 工芸の中で好き・憧れ・参考にしている人、モノがあればお聞かせ下さい。 正倉院御物、ペルシャ絨毯、奈良時代から鎌倉時代にかけての美しい仏像、西洋・日本の甲冑や装飾的な武器などです。 また、それはなぜですか? それら全てに共通する点は、人々の身を守り、精神を支える物であり、作り手や依頼主の祈りが形になった美しいものであるからです。 松田さんにとって漆とは? よくわからない生き物です。しかし美しいと思います。 読者のみなさんに一言お願いします。 漆という素材は大変高価な上、制作に手間も時間もかかりどうしても価格的に苦しい部分がありますが、一度その魅力に気付くときっと長いお付き合いになると思います。視覚的魅力だけではなく、感触も味わう事ができ、経年変化もたのしむ事が出来ます。少しずつでも、この素材を知ってくれる方が増えるとうれしいです。 Hyper Japan London Event Photos
左右田智美 – ロンドンでデザイナー
記・マイク・サリバン 自己紹介をお願いします。 ロンドンでデザイナーをしている左右田智美です。東京都出身で、ロンドンは今年8年半目です。 http://www.tomomisayuda.com/ 左右田さんのお仕事についてお聞かせ下さい。 Royal College of Art(英国王室美術大学院)のデザインプロダクト科をこの夏に卒業しました。私は主にインタラクティブデザイン/アート作品を在学中、在学前からも制作をしています。大学院に入る前は、ロンドンのインタラクティブデザインのスタジオにデザイナーとして勤務したり、自分自身のプロジェクトをメディアアーティストとして発表していました。 どのようにTomomi Sayuda Studioはスタートしましたか? 私の自分自身のレーベルとしての作品の発表は2009年にロンドン芸術大学を卒業した時からです。iBumというお尻をスキャンする作品を卒業制作作品として発表したのですが、その作品が色々と評判になり、雑誌やTVをはじめとしたメディアに取り上げられました。それからというものの、色々な展示会に招待されたり、更に新しい作品、Oshibe, Hands, on等をアートの展示会にフリーランスのデザイナーとして他の会社に働きながら発表していきました。 RCAに在学中も個人のデザイナー/アーティストとしてインドやスペインで展示をしたり、ロンドンのビクトリア&アルバート美術館でトークを行ったり、NHKの海外交流番組に出演したりすることもあったので、在学中も学校外に個人のデザイナーとしてちょくちょく露出していました。 技術について教えて下さい。 元々日本の武蔵野美術大学の工芸工業デザイン科に通っていたこともあり、基本的なアナログなデッサンの技術、モデリング力などは日本で培ってきました。その頃はインダストリアルデザイン、陶磁器のデザイン等について学びました。 日本に居た時は、テレビ朝日のミュージックステーションのセットデザインのCADのデータからドローイングを書き起こすバイトをしていたので、そこでショービジネスの裏方の仕事を体験しました。あとは、ベンチャー企業や派遣社員として大手の会社でウェブデザインのアシスタントの仕事をしたりしていたので、ウェブに関する基本的な事を学びました。日本に居た頃は美術系のバイトの他にもコールセンターのバイト、USENの本社で電話取り次ぎの仕事、販売応援員として大手のカメラ販売店でカメラ、携帯の販売のバイト、営業のバイト等もしていたので、基本的な事務のスキル、セールスプロモーションのスキルはそこで身につけたのだと思います。 結局日本の大学を中退してロンドンの美大に入り直したのですが、最初に入ったコースが現代アート的なアプローチの写真のコースで、そこでコンテンポラリーアートとしての批評的な作品の捉え方、基本的な写真の撮影の仕方を学びました。その後グラフィック系のメディアデザインの学科に映ったのですが、そこからビデオ編集、メディアアート制作についての知識、たとえばArduinoやMax/MSP等、プログラミングの基礎的な知識も手に入れました。 ロンドンでの大学生時代は他にフリーランサーとしてwebデザイナーとしてクライアントを持っていました。FlashやDreamweaver等はそこで独学で学びました。 ロンドンに来てから、パフォーマンスディレクターのカズコホーキさんがやられているフランクチキンズをちょくちょく手伝っていたので、そこでパフォーマンスアートの裏側について、パフォーマンス力も含めて色々学びました。 Kin design というロンドンベースのインタラクティブデザインのスタジオで働いていた時は、美術館にあるタッチスクリーンの端末のUIデザイン、人が触って体験できるような教育用体験端末のデザイン、印刷物、スクリーン等のグラフィックデザイン、デジタル系のデザインディベロップメント、ビデオ編集の技術等を身につけました。 RCAに入ってからはsolidworksでのCAD、金属、木工加工の技術、高度なモデリング、プロダクトのスタイリングの技術、プレゼンテーションの技術等を身につけました。 作品のアイディアは、どこから来ていますか?どのような発想をして作品のデザインに落とし込みますか? 私の場合、これを言うと問題視されるかもしれませんが、作品のアイディアは直感に任せます。横尾忠則や岡本太郎等、直感を大切にするアーティストは私以外にも他にも居ると思うのですが、私も直感タイプです。大体の作品は 直感でひらめいた事を大切にしながら、最後のイメージをクリアに描いて、そこから一気に作ります。 最初はなぜこれが直感的に良いのか分からなかったりする事もあるのですが、直感でひらめいた事は後で考えると自分自身の過去の出来事にうまくリンクしていたり、説明がつくのが不思議です。 そのために、ひらめいた後になぜそう思いついたのか色々な視点から考えなおして、それからうまく他の人に説明できる根拠を作って伝えます。 他に具体的なインスピレーションの得方の方法をあげるとしたら、私の場合は日本の生活史に関する本が好きなので、昔の人の生活に関する歴史本を読んだり、誰かの自伝的な私小説を読んだりする事でしょうか。 他にはマイナーな国に旅行を短期間で一気にたまに行ったりする事が好きなのですが、そこから得られるインスピレーションも強く影響していると思います。 デザインにどのくらいかかりましたか?そして、作品の製作期間をお知らせ下さい。作品を作る際のプロセスを簡単に説明頂けますか? Desktop Fireworksを例にあげるとしたら、デザインの発想、実験、試作等含めて4か月くらいです。大体思いついたら早い段階で作って実験します。そして実際に動かないと面白くないので、実際にそのアイデアが技術的な視点から可能かどうかテストします。もしそこで難しいところがあると感じたら、もうちょっと簡単にできる方法がないか思索します。常に客観的にこの作品がどのように自分の観客に使われるか、楽しんでもらえるかどうか考えながら進めていきます。そして、ファイナルプロダクトを作る段階になったら、形のデザイン、色の配置等、色々試行錯誤しながら検討します。 私の作品はインタラクティブで、人とのコミュニケーション、自分のストーリーを伝える事が重要なので、ビデオ制作に使う時間を必ず最低でも1週間くらいは残します。撮影、AFを使ったアニメーション、ビデオ編集も自分で行います。 私は自分のプロジェクトを計画して前倒しで進めて、最後に余裕ができるように進める事が好きなので、発表一日前は意外とゆっくりお茶を飲んで、最終的な調整できる時間をできるだけ作れるようにしています。実際に今回の卒業制作の作品も発表の一週間前には大体終わって、そこから最終的な調整をする時間を作る事ができました。特に今回の卒業制作は健康に気をつかって、提出の直前でもほぼ毎日水泳に行ってリフレッシュしながらできていたので、その平然さを保てたのは作品の精度に影響したと思います。 一番人気のデザインは何でしょうか? これまでの作品で一番メディアの露出があったのはiBumだったと思います。The Mask of SoulやDesktop Fireworksもその次を狙えればと思っています。 The Mask of Soulに関してはカラオケに行った時に普段あまりしゃべらない友人がいきなり大声でゴールデンボンバーの女々しくてを歌い始めた事が忘れられずに、そこからインスパイアされて作り始めた作品です。 目の部分を隠す事で、プライバシーを与えたら人が恥ずかしくなくなるのか、それと真逆の要素である拡張器をマスクに隠して、言いたい事を言えるようにしてみたらどうなるかという自分自身の疑問を元に制作をはじめました。 公共のカフェにいって、知らない人を巻き込んで、二人の人にマスクを被せて悪口を言い合ってもらったのですが、普段シャイな人ほど大声でなかなか強い言葉を発し始めたのが面白かったです。あと、参加してくれた人々が自分の国の言葉で罵りあっていたのが面白かったです。何を言っているのか全然通じないのですが、観客はそのシュールなパフォーマンスを楽しんでいたので良かったです。 左右田さんの様なお仕事に就きたいと思っている皆さんへ、何か就職に関してのアドバイスはありますでしょうか。 興味のある事があるなら、自分でとにかく試してみるのが良いと思います。そして何度もそれを続けていく事です。そして興味のある人がいるなら、その人に会いにいって業界に入って現実を知る事。とにかく自分でやりたい事を仕事にしたいなら、その道を試行錯誤しながら自分で作るしかありません。 左右田さんの中で、どのくらい日本的要素を取り入れて仕事に取り組んでいますか? そして、どのように日々、日本についてのインスピレーションを取り入れていますか? 日本を取り入れることは意識的にやっていませんが、結局作品にルーツが反映されるものなので、結果的に日本的なものが反映されていると思います。私は日本の本を読むのが好きなので、そこからインスピレーションを受けるのは当たり前かもしれませんが。 […]
小崎アンナ – STAR SKY COOKIES 東京
記・マイク・サリバン 自己紹介をお願いします。 三重県生まれ。高校はカナダに留学し、卒業。その後大阪あべの辻製菓専門学校で菓子作りを学び、卒業後に地元の洋菓子店で働く。後に中国北京へ留学し、北京語を学ぶ。その後マカオへ移住。マカオでケーキ屋「星空ケーキ屋」をオープン。地元の人たちに愛されるお店となり、テレビ、雑誌等のメディアにも取り上げられた。その後結婚を機にシンガポールへ移住。チーフパティシエとして洋菓子店で活躍した後、日本へ帰国。2011年より東京在住。 http://www.starskycookies.com/ 大阪の辻製菓専門学校の勉強について教えて下さい。 洋菓子、和菓子、製パンの基本的な技術を毎日たくさん学びました。 マカオでは自らケーキ屋HOSHIZORA JAPANESE CAKE SHOPを時について教えて下さい。 お店を持つのが初めてで、しかも海外だったので、最初は分からないことだらけでした。ビザのことや、店舗を借りること、機材や材料の仕入れのこと等、手探りで進んで行きました。大変でしたが、あまり不安はありませんでした。ケーキ屋の宣伝等はしませんでしたが、口コミで広がり、次第にたくさんのお客さんが注文して下さる様になりました。全て受注製造のシステムで、インターネット上のメニューから注文を受け、製造してお客さんがお店に取りにくるという形式でした。特に人気があったのは、デザインが全てオーダーメイドのケーキや、似顔絵ケーキでした。 マカオ人は日本食についてどのように思いましたか? マカオの地元の人たちの多くは日本食や日本の文化が好きなようです。「日本のケーキ」というだけで、注目されることもよくありました。ケーキ以外では、マカオにも日本食レストランが何軒かありますが、お店によっては味がマカオ風にアレンジされているものも結構あります。 世田谷区のSTAR SKY COOKIESを教えて下さい。店の名前では意味がありますか? 以前マカオで営んでいたケーキ屋が『星空ケーキ屋』なのですが、暗い夜空に光り輝く星のように、さりげなく人々に幸せをもたらすような存在でありたいという思いからこの名前をつけました。STAR SKY COOKIESはそこから来ています。 日本顧客やマカオ顧客には味の違うことがあると思いますか? マカオの人たちと日本人の嗜好はかなりよく似ていると思います。どちらも、味が甘すぎず比較的あっさりしているケーキを好む人が多い様に思います。また、日本で好まれる様に、抹茶味のケーキもとても人気がありました。 日本スウィート文化を説明出来ますか? 日本には伝統的な和菓子に加えて、世界各国から伝わった様々な種類の菓子があります。また、菓子店も多く、日本では世界最高峰レベルのケーキを食することができます。 なぜ日本人はスウィートが大好きですか? 日本人だけではなく、世界中の人誰もが甘いものが好きであると思いますが、日本人は特に味だけではなく、見た目やラッピングにも凝る人が多い気がします。 また、贈り物に使用される人も多く、たくさんのお菓子があふれている現代では、オリジナルのものを求めていらっしゃる方が増えて来ている気がします。 作品のアイディアは、どこから来ていますか?どのような発想をして作品のデザインに落とし込みますか? リラックスしているときにふっとイメージが湧くことが多いです。お菓子だけではなく、建物や洋服、映画等さまざまなもののデザインからインスピレーションを得ます。 一番大人気の製品はどれでしょうか? 注文が多いのは結婚式でのプチギフト用クッキーや、誕生日のクッキーです。また、クリスマス等のシーズンも注文が多くなります。 小崎さんの様なお仕事に就きたいと思っている皆さんへ、何か就職に関してのアドバイスはありますでしょうか。 基本を大切に、かつ柔軟に物事を考えることが大切なものの一つであると私は考えています。 小崎さんの中で、どのくらい日本的要素を取り入れて仕事に取り組んでいますか?そして、どのように日々、日本についてのインスピレーションを取り入れていますか? 見た目や味が繊細となるように、始めから終わりまで心を込めて細かい部分も丁寧に作ることを常に心がけていますが、それが日本人が持つクオリティの一つであると思います。今後は海外でのオープンを考えているため、そのクオリティを保ちつつ、それぞれの国のローカルの人たちに好まれる様な工夫をして行かなければならないと感じています。 伝統的日本工芸を作りますか? 和柄模様にクッキーをデザインするといったことはありますが、特に日本工芸は使用していません。 小崎さんにとって日本の伝統工芸とは? 日本人として永遠に受け継いで行かなければならない大切なものだと思います。 何か会社のお知らせや、小崎さん個人のイベントなどありますか? 近いうちに移転、実店舗オープンを考えています。 最後に日本の工芸に興味のある海外の方に一言お願いします。 伝統的な和菓子は日本文化、歴史と深く絡み合う、とても奥の深いものです。現代のお菓子だけではなく、背景にある文化や菓子の歴史も共に紐解いて行くと、とても面白いと思います。